「行動と見識」KOUSHIのブログ

行動と見識で人生を豊かにする

「育まれる」でもなく「磨かれる」でもなく「引っ張り出される」

 

こんばんは。

綾小路きみまろさんの『しょせん人生なんて自己申告』。

「人格について」の章から、次の文章をもう一度見てみます。

・個性は、自分だけでは生まれない。人とかかわる中で、引っ張り出されます。

 

個性は人との関わりの中で「引っ張り出される」。

この「引っ張り出される」という表現が気になりますね。「育まれる」でもなく「磨かれる」でもなく「引っ張り出される」。

自分の中にあるものが、人とのかかわりの中で表出する。個性は「作る」というよりも、もとから「ある」もの。そういう意味合いを感じませんか? 

この意味では、昨日ご紹介した橘玲さんの著書で書かれていた内容と通ずるところもあるのかな~とも感じますね。

 

次の文章はこちら。

・セリ市は話芸の面白さに目覚めるきっかけを与えてくれた。父が仔牛をセリに出すようになった。セリ人を見ていて、「なんて格好いいんだろう!」と興奮した。セリ人の口調がたまらなく魅力的に思えた。家に帰って「はい3万円、5万円」って、ずっとやっていた。

 

セリ市での体験が、芸人綾小路きみまろを生み出した原点なのでしょう。

子供のころの経験、強烈な体験は、その後の人生を形作る大きな原動力となります。

自己分析をするときに、子どものころの体験を振り返るよう勧められたことはありませんか? 子供のころに好きだったものの中に自分の適性や転職のヒントが隠されている、ということが言われたりもします。

大人になると頭が固くなります。いろいろなしがらみとともに生きていかねばなりませんし、打算を働かせたりする。そうすると、自分の本音が自分でも分からなくなってしまう。

一方で、子どもは正直で純粋です。遠慮や疑いも持っていない。そんな心と頭に影響を与える強烈な体験は、その人の芯の中にあり続けることになる。分かるような気がします。

 

セリ人を見て「なんて格好いいんだろう!」と興奮。この瞬間に、後の芸人綾小路きみまろの誕生が決定づけられたのですね。

本当に魅力を感じられたのでしょう。「はい3万円、5万円」って、ずっとやっていた。それほど夢中になってしまう。虜になってしまったのでしょうね。

 

少し視点を変えて、親の立場から考えてみます。少し打算的に。

子どもが何に強く興味を持つか。それは親が選ぶことができる。仕向けることができる。そういう側面もある。

親が望む分野や対象で、子どもに強烈な体験を与えればいいんです。

でも、子どもがそれに惹かれるか、子どもがそれで幸せになれるのか、それは分かりません。

例えば、子役として幼少から芸能界やモデルで仕事をする。お子さんが自分で選んだというよりは、親御さんの影響が大きいですよね。

もっと身近に言えば、小学生の時から受験勉強をする。これも、お子さんが自分で「やりたい!」と言って始めるよりは、親御さんの意向によるとことが大きいでしょう。

お子さんが本当に幸せなのか。それは分かりません、誰にも。

でも、親の意向を無理強いするのではなく、お子さんの気の赴くままにしてあげる。お子さんが選んだ興味を大きく育てる手伝いをする。そのほうがよっぽど幸せのような気がしますね。

 

すみません、また少し話がそれてしまいましたね。

 

 

 

にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 英語ブログへ
にほんブログ村

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

遺伝と環境 どちらが影響力を持っているか

 

こんばんは。

綾小路きみまろさんの『しょせん人生なんて自己申告』。

今日は「人格について」の章から、こちらの文章をお伝えします。

・個性は、自分だけでは生まれない。人とかかわる中で、引っ張り出されます。

人の個性は人格の一部と言えますね。

個性とは個人の性格、性質、性癖。その人に固有のもの。個性とは生まれ持ってのもの、と考えてしまいがちですが、後天的に身につける部分も多い。先天的なものと掛け合わさって、その人独自のものとして作り上げられていく。それが「個性」と呼ばれるもの。

 

先天的と後天的。言葉を換えると、遺伝と環境。私たちはこの2つの要素によって一個人として形作られていきます。

でも、遺伝による影響のほうが絶大である、ということが近年になって言われます。

 

橘玲さんの著書

言ってはいけない残酷すぎる真実』

『もっと言ってはいけない

を読んだことはありますでしょうか?

 

 

 

この著作では、遺伝と努力の力関係だけでなく、私たちが「そうあってほしくない」という現実が書かれています。

私たちが何となくは気づいていた、もしくは明らかにそうだと感じていたけれど、社会の中で認めがたいもの、声高に言えないような真実が書かれています。

例えば、知能に関しては遺伝8割、環境2割で決まる。「外交的/内向的」のような性格の遺伝率は5割、とか。

学力、年収、老後の生活まで遺伝が影響する、とか。

「美貌格差」の現実や、子育てや教育と子供の成長との関係、人種と知能の関係についても。

 

認めたくないような「不愉快な現実」のオンパレードです。

未読の方はぜひ読んでいただきたいと思います。「知りたくなかった!」と思うかもしれませんが、もしこれらが本当に真実であるのならば、知っておくに越したことはありません。その上で、打ち手を考えた方がよほど生産的かもしれません。

逆に「知って良かった」と思うかもしれません。例えば、子育てに悩む方にとっては、自己嫌悪から解き放たれるかもしれません。

刺激が強いのは確かですが、読んでおいたほうが良いでしょう。

 

先天的な要素に抗えないことは認めるとしても、後天的に何とか挽回できる。そう思いたいところですが、実際には難しい面がある。さらに、後天的といっても、幼少の頃の環境の影響が大きい。大人になってまったく異なる自分になろうと思っても、どうにもならない部分がある。そんな側面は認めざるを得ないんですかね。少し悲しくなりますが。

 

すみません、本題から少し話がそれてしまいました。

 

明日はきみまろさんの文章に戻りますね。

 

 

 

にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 英語ブログへ
にほんブログ村

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

人を目的にせずに自分を良くする

 

こんばんは。

綾小路きみまろさんの『しょせん人生なんて自己申告』。

 

「人間関係について」の章から今日お伝えするのは、次の文章です。

・人を目的にすれば人に囚われる。ただ、自分を今よりも良い方向にもっていくために黙々と歩き続ける。

人間関係を良くしよう。そう思うと、相手の人を中心に考えてしまいますね。嫌われないようにしよう、気に入られるようにしよう。相手本意で考えてしまう。それ自体は悪いことではないようにも思えます。「相手の視点で考える」ことはコミュニケーションの基本とも言われますから。

でも、それが「自分を捨てる」ことの引き換えになってしまうと話は変わってくる。相手を尊重することは大切。でも自分を、自分の本心を犠牲にしてはいけない。

 

人間関係を良くしよう。そう思うと相手を中心に考えてしまう。あいつが悪い、あいつが変わらないといけない。そう思い込んでしまう。そうすると、相手を変えようという気持ちを抱き続けてしまう。自分の方は悪くはない。行動をあらためるのはあいつの方だ。こんな考えに固執してしまう。

 

きみまろさんの文章は、上に挙げた後者の状況をさしているでしょう。

相手のことだけを考える、つまり人を目的にしてしまうと、何も状況は良くならないんです。関係は良くならない。それどころか、一層悪くなっていく。

人を目的にせずに、自分を良くすることを第一に考える。今よりも自分を少しでも良い方向に持っていく。それが人間関係の鍵だと。

 

そして次の文章。

・人に囚われていては苦しみから抜け出せない。自分が良い方向に歩み続ければ、おのずと周りが開けていく。

 

自分が良い方向に歩み続けること。これが、人間関係の悩みを解決する。

人間関係を良くしようと思って、他人のことばかりを考える、つまり他人を目的にすることで、その人に囚われてしまう。相手を更生させてやろう、もしくは、相手に気に入られようと思う。だけど、人間関係は良くはならない。悩みは解消されない。苦しみからは解放されない。

 

相手に求めない。自分ができることをする。自分が良い方向に進む。そうすることで、「関係」が変わる。相手を変えようと思っても変わらない。自分が行動を起こすことで「関係」が変わる。

 

おのずと周りが開けていく。

 

そう、自然に、意図せずに周りが変わっていくんです。

 

人間関係に悩んでいる人は、この言葉をかみしめて実践していただきたいですね。

相手を変えるのではなく、おのずと変わる。そのためには自分が良い方向に進む。

 

実践してみたいと思いませんか?

 

 

 

にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 英語ブログへ
にほんブログ村

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

あくまで自分の目的にこだわる

 

 

こんばんは。

綾小路きみまろさんの『しょせん人生なんて自己申告』。

「人間関係について」の章から、心に響いた、文章をお伝えしています。

 

今日お伝えするのは、次の文章です。

・専属司会者として森さんと10年、小林さんとは4年半。3年を過ぎたあたりからマンネリの関係になる。「もうそろそろ辞めさせてください」とい自ら身を引いた。

 

森進一さん、そして小林幸子さんは演歌界の大スター。

そんなスターの専属司会者を務める。これはなかなかできることではありません。

司会者としての実力なしには白羽の矢が立たない。そして何年も続けられるわけでもない。大スターの専属司会者の座を狙っている人は数多いたはすですから。

何よりも信頼関係が重要となってくる。綾小路きみまろさんは人間関係の構築に長けていたのでしょう。あくまで、テレビやYouTube、そしてこの書籍からの印象でしかありませんが、温かい人柄が伝わってきますよね。

実際のところは分かりませんが、報酬もそれなりに良かったのではないでしょうか。そう考えると、ずっと続けていた方がいいように思えます。ある程度の地位とお金を手に入れていたともいえる。なのに、なぜ自ら身を引いたのか?

 

次の文章にその答えが。

・専属司会として生きることではなく、漫談でたくさんの人を笑わせるのが目的。

きみまろさんは、あくまで自分の目的にこだわった。生きる目的にこだわった。お金や安定ではなく、自分の生きる意味にこだわった。その道を進む。それを貫いた。

自分の夢に向かって進もうという意欲。多くの人がこれを失っている。

特に「雇われている」という身分の人は、自分の夢を捨てているともいえるかもしれない。雇われていると妥協せざるを得ない場面の連続ですから。それをしかたがない、それを良しとする生き方を続けていると、もう「夢を追う」という意欲は枯れてしまうのかもしれません。

自分の人生をいかにいきるか、ということを考えることすらできなくなってしまうのかもしれません。

 

確かに現状の安定を捨てることには恐怖が伴います。その恐怖はなかなか克服できない。

でも「自分の夢を追う」ことを選択する、覚悟すると、人生は好転するかもしれない。きみまろさんの文章を読むとそう感じます。

 

・不思議なことに、その後すぐに伍代夏子さんの「漫談でお客さんを楽しませる」役を担う。

こうやって「不思議なこと」が起こるんですね。これは覚悟を決めないと現れない現象なのかもしれません。

「漫談でたくさんの人を笑わせる」という自分の夢を叶えてくれる人が現れる。確かに運の要素が多いでしょう。たとえ覚悟を決めたとしても、自分の思い通りにいくとは限りません。

でも、この「運」を引き寄せたのが、きみまろさんが持つ「人間関係力」とでもいう魅力なのでしょう。伍代夏子さんからのオファーはきみまろさんの人としての魅力によるものではないか、そう感じました。

 

明日に続けます。

 

 

 

にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 英語ブログへ
にほんブログ村

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

人間ではなく「関係」の方にある

 

こんばんは。

綾小路きみまろさんの『しょせん人生なんて自己申告』。

「人間関係について」の章から今日お伝えするのは、次の文章です。

・人間関係とは、まことにやっかいで煮え切らないもの。わかりやすい善人・悪人なんていない。

人間関係は本当にやっかいですよね。

どんな人でもいろいろな側面で善し悪しを併せ持っているので、その人に全幅の信頼を置けるかどうかは判断できない。どうやって人間関係をつくっていけばいいのか、絶えず迷ってしまう。

これが人間関係の悩みが絶えない一つの大きな理由かもしれません。

 

次の文章を見てみます。

・見方を変えればこうも言える。人間関係の悩みの原因は、人間ではなく「関係」の方にある。その人が憎いのは相手や自分が悪いのではない。その人との関係、環境に問題があると考えることはできないでしょうか。

罪を憎んで人を憎まず。この考え方に通ずるものがありますね。

 

本当に嫌な人、憎しみを感じる人。そういう人と付き合わなくてはいけない状況にあると、その人の嫌な部分しか見えてこなくなる。その人が全人格的に「悪」だと感じてしまう。その人と自分という2人の人間のことしか考えられなくなる。

このように「人間関係」とはいうものの、私たちは「人間」しか見ていない。

「関係」のことは考えない、頭が及ばない。そんな状況に陥っているのですね。

 

悩みの原因は「関係」のほうにある。「人間」、すなわち、私とあなた(嫌な人)が問題ではなく「関係」が問題なのだ。

この視点は響きました。

「嫌な奴が悪いのではない。悪いのは関係なのだ。」

このように考えることができれば、憎むべき対象は「関係」になります。「嫌な奴」への嫌悪感がなくなる、薄まる。そんな効果が期待できる。

これは人生を生き易くする、知恵ですね。

 

幸せとは、日々、その時々を「気分良く」生きること、ともいえます。

気分良く生きるためには、憎しみや怒り、恐怖といった感情は排除する必要がある。嫌な人、苦手な人、憎い人にネガティブな感情を持ってしまうところを、人間ではなく関係の方に目を向けてみる。関係に対してこういうネガティブ感情を持つことはできませんので、そういった感情は消失します。もしくは、どうしようもないこと、哀れなこと、といった思いを持つに至るかもしれない。さらには「関係」を改善しようと思える。「あの人」を変えるのではなく、「関係」を変えるのだ、という前向きな考え方、姿勢が持てるかもしれない。

 

あなたの「嫌な奴」も「関係」という問題の被害者のひとり。

こう感じられれば、一緒にその問題解決にあたろう。そう思えるかもしれません。

 

あなたはどう感じますか?

 

 

 

にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 英語ブログへ
にほんブログ村

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

嘘でもいいから、そう思ってみる

 

こんばんは。

綾小路きみまろさんの『しょせん人生なんて自己申告』からの心に響く言葉。

 

今日から「人間関係について」の章に入っていきます。

 

人間関係は、良くも悪くも私たちの生活とは切っても切り離せません。私たちは一人では生きていけません。他人と関わることがどうしても必要になってくる。

人間関係が満たされていると、充実していると、幸せを感じる時間が多くなる。生き易くなる。つらさや怒り、妬みといった感情を持たない。これが最も幸せに寄与するのではないでしょうか。

本当に良好な人間関係を持つことができれば、それだけで幸せ。地位もお金も名誉がなくても、人間関係に恵まれていればヘルシーな精神状態で生きることができる。逆にお金がいくらあっても、人間関係に問題があれば、幸せから遠ざかる。

人間関係こそ、幸せに影響を与える最たる要素といえるでしょう。

 

一方で、人間関係は私たちの悩みの筆頭にあがるもの、というのが現実。だから、幸せじゃない人がこれほどまでに多い。

きみまろさんは、人間関係について何を語っているのか。

さっそく最初の文章を見ていきましょう。

・嫌な人間はどこにでもいます。そういう人ほど、じつは近くで支えあって生きているんです。

 

嫌な人間はどこにでもいる。

これは真実ですよね。あなたの人生を振り返ってみればわかると思います。

好きな人、一緒にいて居心地がいい人。そんな人達だけに囲まれて生きてきた、という人はいないと思います。

嫌な人から離れる、距離を置くことができる。そんな環境であればありがたいのですが、現実はそうではありません。

クラスメートや先生は選べない。会社の上司や同僚は選べない。ご近所さんも選べるわけではない。そんな環境においては、合わない人や嫌な人とどうしても付き合っていかなくてはいけない。これが現実ですよね。

 

そういう人ほど、じつは近くで支えあって生きているんです。

 

嫌な人は嫌な人。私たちは、こう考えてしまいがちです。考えるというよりも、そう感じてしまうというほうが適切でしょうか。

「あの人は嫌な人だ」と繰り返し思ってしまうと、それがデフォルトとして確立してしまう。それ以外の可能性が見えなくなってしまうんです。その人の嫌な面しか見えなくなって、ますますその人を嫌いになっていく。

 

その状態を打ち破るには、その凝り固まった思いを無理やりにでも壊す必要がある。

その手段として「そういう人ほど、実は近くで支えあっている」と思ってみることは有効かもしれません。本当にそう思えなくてもいいんです。いや、本当にはそう思えないでしょう、実際のところ。嘘でもいいから、そう思ってみる。その嫌な人と会うたびに「この人と私はささえあっている」と思ってみる。これを毎回繰り返す。

 

そうすると、その人のいい面が見えてくる。実は支え合っているのかも、という面が見えてくる。

結局は、見方の問題なんです。他人をネガティブな色眼鏡でみるか、そう決めつけてしまうか。ポジティブな視点で、良い面を探してみるか。

これが全ての嫌な人に通用するかと言えば、疑問符が付きます。どうしても許せない奴はいますからねw

でも、試してみる価値はある。騙されたと思ってやってみましょう。人生が変わるかもしれません。

 

明日に続けます。

 

 

 

にほんブログ村 英語ブログへ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

自分の役割に徹する

 

こんばんは。

『しょせん人生なんて自己申告』からの心に響く言葉。

 

「役割について」の章からの文章を続けます。

毒蝮三太夫さんは、素人のおばさんにインタビューして「調子がいいババアだな」なんてことをズバズバ言ってしまう。それでも面白いのが、あの人のすごいところ。

綾小路きみまろさんも、やはり毒蝮三太夫さんを意識されていたのですね~。

以前も触れましたが、毒蝮三太夫さんの毒は本当にすごいんです。毒にもいろいろなタイプがあると思いますが、毒蝮さんの場合は、じわじわ効いてくる感じの毒ではない。直球で即効で効く感じの毒です。これは実際に聞いてみないと分からないですね。聞けば一発で分かります。

 

「調子がいいババアだな」と言われたほうのおばさまたちはどうなってしまうのか。

ショックを受けるのか、ふさぎ込んでしまうのか、カッとなってしまうのか。いずれにしてもいい気分ではないはず。

それが、怒るどころか喜んでいるんです、おばさまたちは。毒蝮三太夫さんに毒を吐かれて嬉しいんです。

 

これぞ、毒蝮三太夫の芸風。確立された芸。毒蝮さんだからこそできる技。

綾小路きみまろさんが「すごい」とうなる、毒蝮さんの話術、面白さ。同じ「毒舌」で括られることもあるお二人ですが、綾小路きみまろさんは毒蝮三太夫さんのような毒は吐けない。毒蝮さんの毒を認め、尊敬されているのを感じます。

 

そして、次の文章を。

・どんな人にも大なり小なり役割がある。その役割をきちんと果たすことが、人から愛されるコツ。

綾小路きみまろさんと毒蝮三太夫さんの「毒」は異なります。芸風は異なります。それぞれの役割が異なっているんです。

 

自分の役割をきちんと果たす。他人と比べたり、他人と張り合ったりするのではなく、自分の役割に徹する。

このことで生き易くなる。

それどころか人生を楽しめる。

さらには「人から愛される」。

 

綾小路きみまろさんは毒蝮三太夫さんの芸風をまねたのではなく、自分の芸風に徹した。つまり、自分の役割を果たした。

だからこそ、綾小路きみまろを応援するファンを作り上げることができた。愛される存在になることができた。

 

あなたの場合はどうでしょうか?

 

人生を楽しんでいますか?

愛される存在になっていますか?

 

もうそういう状況にないのであれば、その一つの原因は「自分の役割に徹していない」からかもしれません。

他人と比べてもいいことはありません。妬みや僻み、怒りややるせなさといったマイナスの感情を持つだけです。

仮に優越感に浸れたとしても、それで満たされているのか? うぬぼれにすぎません。刹那の満足感に何の意味があるのか? 冷静に考えれば分かります。

 

あくまでも自分は自分。

自分の役割を果たすことに集中する。

そうすると人生は楽しめる。それだけでなく、人から愛される。

「人生を楽しむ」、「人から愛される」のは「自分の役割に徹する」ことだったんだ、との学び。この書籍を読んで本当に良かった。

 

自分の役割を意識する。そしてその役割に徹する。生き方を改めたい。そう感じました。

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 英語ブログへ
にほんブログ村