「行動と見識」KOUSHIのブログ

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世界のビールを楽しむ アサヒビール②

昨日に引き続き、大日本麦酒に関しお伝えします。

 

以前お話ししたように、第一次世界大戦の後、ドイツの租借地であった青島が日本の管理下に置かれました。その際に、大日本麦酒青島ビールの経営権を取得し、1945年まで自社工場として運営します。

 

また、同社は、朝鮮市場向けのビールを製造するために、1933年に地元資本と折半で、朝鮮麦酒という会社を設立しています。この会社が、現在韓国市場で高シェアを誇る、ハイトビールの前身です。

 

大日本麦酒の独占状態は、大東亜戦争の終焉と共に終わりを迎えます。

 

第二次世界大戦後の1949年に、大日本麦酒は朝日麦酒と日本麦酒に分割されます。前者が現在のアサヒビール、後者が現在のサッポロビールに繋がります。

 

分割当時の市場シェアは、日本麦酒が約39%、朝日麦酒が約36%で、その後に麒麟麦酒が約25%と続いていました。

西日本では戦前からアサヒブランドが定着しており、分割後の朝日麦酒も西日本を中心に販売を伸ばしていきます。

一方、日本麦酒はニッポンビールのブランドで東日本での販売を中心にしていましたが、同ブランドの苦戦とサッポロビールブランド復活が期待されたことにより、1957年からサッポロビールを販売しました。

 

1954年には、シェア1位が麒麟麦酒、2位が朝日麦酒、3位が日本麦酒の順となり、朝日麦酒は1960年まで国内2位を維持します。

その後、東京市場への集中化が進んだ影響もあり、関西の販売を軸としていた朝日麦酒はシェアを落としていきます。1961年に第3位に降下した後は、業界三番手が定位置となる期間が長らく続きます。

その後も巻き返しを図ることができないどころか、じりじりとシェアを落としていき、1980年代にはシェアが10%を割り込みます。ビールメーカーとして後発のサントリーに追い抜かれる寸前まで追い込まれてしまいました。

 

現在では、アサヒとキリンがトップの座を争い、サッポロは万年4位というような状態になっていますが、三十数年前に、アサヒが危機的な状況にあったとは信じがたいですよね。

 

ちなみに、アサヒビールに社名が変更になったのは1989年で、それまでは依然として、朝日麦酒が正式な社名でした。

 

明日に続けます。