「行動と見識」KOUSHIのブログ

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世界のビールを楽しむ キリンビール ②

おはようございます。

今日から新しい月の始まりですね。

 

ですが、当ブログでは、前月に引き続き、ビールのお話です!

 

昨日の記事では、戦前までの麒麟麦酒の歴史をお伝えしました。

今日は戦後の歴史を見てみます。

 

大東亜戦争終了後の1947年には「過度経済力集中排除法」が制定されました。
以前お話したように、この流れを受け、1949年に大日本麦酒が朝日麦酒と日本麦酒に分割されます。

麒麟麦酒は、アメリカの対日政策方針が転換したこともあり、分割を逃れました。

 

大戦前後の混乱期に配給対象となっていたビールは、一時期商標が姿を消していましたが、同社のビールに霊獣「麒麟」のラベルが復活したもの1949年です。

以前お伝えした通り、当時のシェアは日本麦酒が約39%、朝日麦酒が約36%で、その後に麒麟麦酒が約25%で続いていました。戦後当初はまだ麒麟は三番手に位置していたのです。それにしても、分割前の大日本麦酒が非常に高いシェアを有していたことに改めて驚かされますね。

 

ビール需要は1950年に勃発した朝鮮戦争による特需景気の影響もあり、大幅に伸びていきます。当時は、ビール各社の生産比率が決められていたこともあり、麒麟麦酒はその制限内での生産にとどまらずを得ませんでしたが、その比率が撤廃された1954年に、「キリンビール」はトップシェアを獲得し、国内ビール企業としての地位を確固たるものにします。

 

日本が高度経済成長期に突入し、ビール需要も大幅に伸びていきます。
その中で、「キリンビール」は市場からの高い支持を受け、1972年にはシェア60%を達成します。

その後も、「キリンビール」は国内でのシェア1位を継続して確保します。70年代から80年代半ばまで14年間にわたり60%を超えるシェアを維持しました。

 

以前お話した「ビールといえばキリンビール」という時代は、まさにこの期間のことを指しています。
我が家にも、キリンの瓶ビールが黄色いプラスチックの通い箱で配達されていたことを思い出します。子供ながらも、当時は「ビール=キリンビール」だと感じていました。

 

麒麟が絶対的な地位を確保していたのは、1970年代に企業分割の議論が行われていたことからもうかがえます。当時は物価の高騰が社会問題になっており、業界を寡占する企業は価格を操作しうるとの議論が行われていたのです。60%以上のシェアを有していた麒麟麦酒には批判が集中しました。

 

結局、企業分割はシェアの大きさだけを対象とするのではなく、新規参入障壁などの弊害があるかどうかも判断の基準となったため、同社は企業分割をまぬがれます。
そして、高シェアを維持し続け、麒麟の黄金時代は続くと思われました。


他社のあの大ヒット商品が登場するまでは…。