あなたにはこんな行動がとれますか? 鍵山秀三郎さんの決断にしびれる
こんばんは。
本日もこのブログにお越しいただきありがとうございます。
今日も鍵山秀三郎さんのお話を続けますね。
昨日の記事では、鍵山秀三郎さんの生まれから疎開先の岐阜での生活までをお話ししました。
高校を卒業後再び東京に戻ってきたのは1953年。
自動車部品を扱う会社に職を得た鍵山さんは本当に一所懸命働きます。重労働をいとわず、日曜祭日関係なく早朝から夜中まで働き続けました。
あなたは、本当に一日も休まず働くなど想像できますか?
加えて、販路拡大に積極的でなかった同社において、鍵山さんは自腹で出張を行い新規顧客を獲得していきます。
会社のために自腹で出張するなどなかなかできるものではありませんよね。
こうして、鍵山さんは会社の売上を伸ばし続けていくのです。
この時期にも、会社の掃除を徹底的にやられたようです。岐阜での両親の姿に大きな影響を受けていたことがうかがえます。
その成果が認められて、27歳の若さで同社の専務取締役の地位を得ます。
このくだりを読むと一つの素晴らしいサクセスストーリーのように思えますね。
そのころに結婚し、子どもにも恵まれていました。まさに成功と幸せを手に入れていたのです。
ですが、この環境に鍵山さんは安住しません。
仕事に不満はなかった鍵山さんですが、会社でどうしても許せないことが一つありました。
それは、社長家族が会社のお金を家のお金のように使っていること。
鍵山さんは、社長の奥さんだけでなく子どもまでもが、会社のレジからお金をもっていってしまう状況が許せません。社長に「公私混同をやめてほしい」と再三お願いしますが、聞き入れてもらえません。
社員をぞんざいに扱う社長の態度にも憤りを感じていた鍵山さんは、同社を辞職するのです。
あなたがもし専務という肩書と報酬を得ていたら、鍵山さんのように会社を辞めることができますか?
しかも、当時は結婚してお子さんが生まれた時期です。自分だけでなく家族の生活も鍵山さんの稼ぎにかかっている状況。家族を養えるかどうかも分からないのです。
自分と家族の生活を犠牲にするかもしれなくても、自分の正義・信念を貫く姿勢にしびれました。
自分には到底そんな決断はできないのではないかと。
そして、鍵山さんは1961年に自動車部用品販売の「ローヤル」を個人創業します。
1962年に株式会社に改組したこの会社が、のちのイエローハットの始まりです。設立当初は現在のような小売りではなく、卸売りを行っていました。
明日に続けます。