鍵山秀三郎さんの少年時代 その後の生き方は疎開生活なしには語れないと思う
こんばんは。
今日もこのブログにご訪問いただきまして誠にありがとうございます。
あなたは週初めの月曜日をどのように過ごしましたか?
私は想定外の事態に巻き込まれ帰宅がだいぶ遅くなってしまいました。
なかなか思うとおりにはいきませんね。
この状況でも、「ブログを書かずに一日は終えられない」との思いでこの記事を書いています(笑)。
易きに流されて後悔するか、踏ん張ってタスクをこなすか。
後者を選択することで、気分良く今週の残りの時間を過ごせることを知っています。
前者を選べば、気分が乗らないまま無為な時間を過ごしてしまうことが分かっています。
分かっていながらやらないことは、自己肯定感を低くすることにつながります。
ここは実践しないといけません。鍵山秀三郎さんに触発されたからかもしれません。
さて、本題に入ります。
鍵山秀三郎さんのお話を始めたのが5月30日。この一週間でさらに4冊の著作を読むことができました。
鍵山さんのヒストリーを簡単にお伝えしてきましたが、まだまだ書くべきことが多く残っています。
鍵山さんが上京して苦労を重ねながらイエローハットを大きくしていった過程。
その中での実体験から語られる言葉の説得力。
これらを中心に筆を進めていきたいと思います。
ですが、その前に「鍵山さんの少年時代の体験」を避けることはできないのでは、との考えに至りました。
鍵山さんの書籍を何冊も読むなかで、鍵山さんの折れない信念、不屈の精神は少年時代の育まれたのではないか、と強く感じたからです。
鍵山さんの少年時代を見ずにその後の成功を語ることはできません。
鍵山さんの両親はいずれも岐阜の田舎出身。恵まれない生い立ちから上京し営々と努力を重ねた末、ようやく人並みの生活を送ることができるように。
さらには、その努力の継続のおかげで、比較的裕福な環境を得るに至ったようです。
鍵山さんは五人兄弟の末っ子。裕福な環境において、ある意味自由奔放に生きていたと述懐されています。
ところが、そこに訪れたのが太平洋戦争。
東京大空襲によって、鍵山家は築き上げた生活基盤をすべて失ってしまうのです。
鍵山家が行く当てもなく疎開生活を余儀なくされたのが、岐阜の山奥でした。
裕福な環境で育ってきた鍵山さんの生活が一変したのが、疎開先の岐阜での生活です。
「疎開先での少年時代がなかったら今の自分はなかった」と鍵山さんは述懐されていますが、はたからみれば過酷な生活そのものに過ぎません。これを乗り切り、活用したのが鍵山さんの凄さだと思います。
明日に続けます。