トイレ掃除は「行」 実践すると腑に落ちる
こんばんは。
本日もこのブログにお越しいただきありがとうございます。
昨日は、トイレ掃除と感動の関係についてお話しました。
「感動こそ生きている証」「感動こそ人生」と言い切る鍵山さんの、トイレ掃除に対する信念を感じる言葉の数々をお伝えしました。
今日もトイレ掃除に関してお話します。
トイレ掃除について鍵山さんが語るお話の中で、耳慣れない言葉を知ることになりました。
それは
「下座行(げざぎょう)」
という言葉です。
あなたは「下座行」をご存じですか?
私は鍵山さんの書籍を読むまでこの言葉を知りませんでした…。
鍵山さんの書籍の中で何度も言及されている森信三先生が「下座行」について語られていたといいます。
下記はそのお言葉です。
「一人の人間がその人の真価よりはるかに低い地位に置かれていながら、それに対して不満を表さず忠実にその任を果たすというのが、下座行の真の起源。」
「下座行とは、社会的な上下階層の差を超えることを、体をもって身に対する行」
お坊さんの修業でもあり仕事の一つのようですが、一般人でも、ふだんの生活の中で下座行という行に取り組むことができます。
どんなに低く見られても、そのことをまったく不満に思うことなく淡々と仕事をし生活すること。
さらには、その状況を却って自己を磨く最適の場所と心得て、自己を織り自分を鍛える絶好の機会と考えること。
これが「下座行」といえるのです。
私たち一般人も、このような態度で毎日を生きることができれば、「行」に取り組んでいると言えるのですね。
とはいえ、実生活でこのような態度をとるのは難しいと感じます。
周りの出来事に感情を翻弄させられ、「行」に取り組むような余裕を持つことは難しいですよね。
私にはできないと思います…。
鍵山さんは、トイレ掃除こそが下座行そのものだとおっしゃっています。
「私は下座行に取り組むことを勧めている。下座行とは、自分の身を低くし人から顧みられないようなことについて、手足を汚すことを厭わずに行うということ。」
「トイレ掃除は、まさにこの下座行そのもの。この行いを続ける中で、自分とその周囲の環境を変えてきた」
「ここで大切なことは、身を低くすることで人間としての謙虚さを身につけ、手足を汚すことを通じて目に見えない価値を実感すること」
実生活のさまざまな場面では難しいとしても、「トイレ掃除」という一つの取り組みの中で「下座行」の考え方を実践することはできるような気がしませんか?
黙々と全身全霊でトイレ掃除に取り組むことで、雑念を感じる隙を取り除いてしまう、とでもいいましょうか。私はトイレ掃除をする中で、実際にそのような感覚を覚えたことがあります。
トイレ掃除を繰り返すことによって、生活においてストレスを感じる状況でも、自分を保つことができるようになってくる。
そして、その余裕が自分と周囲の環境を変えることにつながる。
こう考えると「トイレ掃除」は理にかなっているように感じます。