何か一つのことを言うと全く逆のことも言いたくなる
こんばんは。
今日は、田坂広志さんの書籍『人生で起こること すべて良きこと』から、心に残った「言葉」関連する記載についての話に戻ります。
次に引用するのは下記の文章です。
何か一つのことを言うと全く逆のことも言いたくなる。
「私が感じていたことをまさに言い当ててくれた!」
この文章を読んだときにそう感じたことを覚えています。「やはりそうなのだ」という嬉しさ。自分だけが持っている感覚ではなく、他者も持ち合わせていることを知った安堵と、それが田坂広志さんから語られたという感激。これらの思いが混ざり合った感情でした。
氏が語る文脈とは少し異なるかもしれませんが、日常生活においてこう感じたことはありませんか?
例えば、他者の主張と自分の考えが相容れず、激しい感情を伴って議論をしているような場面。まあ、平たく言えば言い争いをしているような時ですね。
自分の主張をまくしたてた後に、他者が自分の意見を少しでも理解したような、同意したような物言いを感じた。その後に、他者の考えに同意を示したり、擁護してしまうようなことが。
「あなたの言う〇〇は××だということも分からなくはないけれどね。」といったふうに。
正直、これが本心から発せられた言葉がどうかが自分でも分からない。そういう考えが心の奥底に、もしくは心の片隅にあったからこそ、少し気が緩んだときに、ふと言葉が突いて出てしまう。そういうメカニズムだと想像します。
でも、必ずしもそうではない時もあるのです。そういう考えが自分の中のどこかにあった、ということを自覚している場合もあるのでしょうが、そんな考えを自分が持っていたとは思えないことがある。なぜか分からないが、自分が想っていたことと正反対のことを擁護するような言葉が、口からこぼれ出てしまう、ということが。
なぜかは分からないのですが、こういうことを度々経験してきました。
それが自分固有の経験や問題ではなく、私たち人間に共通する性質である。そう考えると、本当に私たち人間の面白さを感じるとともに、認識できていない、理屈では考え難い性質について無知である自身について、「自分のことを理解できていない」という情けなさや怖さといった感情も湧き出てくる。この文章を読んだときに、私の頭の中にはこういう考えも巡りました。
人間心理に長けている人はこのことを知っている。そういう人たちに、これを知らない人はうまく利用されているのではないか。こういう考えも浮かび上がってしまいました。
少し穿った考え方かもしれません。でも、実際にこの性質を活用(悪用)されている場面は、世の中には数多くあるのではないか、という疑念は拭いきれません。
あなたはどう感じますか?