「行動と見識」KOUSHIのブログ

行動と見識で人生を豊かにする

10年の努力があってこそ

 

こんばんは。

綾小路きみまろさんの『しょせん人生なんて自己申告』の「出会いについて」の章。

昨日は一つ目の出会いについてお伝えしましたね。

・新聞配達をしていた病院で患者さんと親しく話すように。その一人がエンパイアの営業部長。それがキャバレーでボーイとして働くようになったきっかけ。

 

今日は二つ目の「出会い」についての文章です。

・エンパイアで腕を磨いて10年。日劇の人からお誘いをいただく。「猪俣公章リサイタル」で前座として漫談を披露。舞台裏でゲラゲラ笑ってくれたのが森進一。マネージャーからの電話で、森進一の司会者に。こうして芸人人生は大きく動き始めることになる。 

 

ボーイとして働いていたのに、ひょんなことから司会進行を任された。そこから10年間腕を磨き続けたきみまろさんに転機が訪れます。

この10年というのもポイントだと思うんです。

「努力」と「運」と「縁」が綾小路きみまろさんの人生にとって大切なパーツであった。このことは以前ご紹介しましたね。

この「10年」を「努力」と考えると分かりやすい。ただ単に幸運に恵まれた、ということではないんです。努力があってこその「運」と「縁」。このことをあらためて実感しました。

「森進一さんの歌謡ショーの専属司会者になった」ことについても、以前ご紹介しましたが、そのいきさつはこういうことだったのですね。

日劇猪俣公章さんについても、Wikipediaさんにお世話になりましょう。そのほうが、この文章をよく理解できますからね。

日本劇場(にほんげきじょう、1933年12月24日 - 1981年2月15日閉館)は、かつて東京都千代田区有楽町に存在した劇場。日劇(にちげき)の通称で親しまれた。

1933年(昭和8年)竣工。戦時中の空襲による被災や、終戦後の占領軍による接収も免れ、半世紀近くにわたって日本興行界を代表する象徴のひとつとして存在した。

次の文章もWikipediaさんから。

1960年代後半頃までは、日劇の舞台に立つことが、一流芸能人の証となる憧れの地でもあった。

 

そして、猪俣さんについても。

猪俣 公章(いのまた こうしょう、1938年4月11日- 1993年6月10日)は、日本の作曲家・作詞家。

1964年、鈴木やすし『僕の手でよかったら』作曲家デビュー。1966年に森進一のデビュー作にしてヒット作となった『女のためいき』を作曲、その後も森に『港町ブルース』『おふくろさん』『冬の旅』などの大ヒット曲を提供する。他にもテレサ・テン『空港』、藤圭子『京都から博多まで』『女のブルース』、水原弘『君こそわが命』、五木ひろし千曲川』など、数多くのヒット曲を提供して成功を収めた。

晩年は坂本冬美マルシアを弟子入りさせ、自らの家に住まわせて育成したことで知られる。なお、猪俣は生前、歌手だけでなく、里村龍一や冬樹かずみなど、音楽作家の育成にも力を注いだ。

 

明日に続けます。

 

 

 

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