自分は「大人」なのか?
こんばんは。
私たちには他人の「不幸」を見て心の安らぎを得たり、鬱憤晴らしをしたりするとことがある。
楠木建さんのご指摘、そのとおりですよね。
これは今に始まったことではなく、昔から人間なんてそんなものです。
たとえば、『週刊新潮』。
長い歴史がある週刊誌ですが、電車のつり広告をみると底意地の悪い見出しのオンパレード。誌面の大半が妬み・嫉み・恨み・辛みで埋め尽くされている。
私は芸能人や有名人のゴシップ話には特に興味を感じません。でも、なぜか中吊り広告は見てしまいます。
「えっー、そうなの!」
これは単に驚きを覚えたとき。自分が気にしている有名人の話題だとやはり気にはなるんです。
「へ~、こんなこともあるんだ~」
これは中立的な(?)感想ですね。自分の心が、精神状態が安定しているときには、こういう思いを抱く。客観的に、冷静に物事を見られるんです。
「こんなひどいことをしている人がいるのか。自分はそんなに腐っていない」
「こんなに苦労している人がいるんだな。それに比べれば自分はまだましなほうだ」
自分の生活が満たされていないと、こういう思いを抱きやすい。その人を哀れに思うのではなく、自分より良くない状況がいる人を見て安堵する。
これにしても需要があるからそうなっているのでしょう。
残念ながら、私たちには程度の差はあれ、他人の不幸を見て喜んだり、安堵したりする性質がある。そして、自分の心が満たされていないと、その振れ幅が大きくなります。逆に自分の心が満たされていれば、そんなに他人の不幸など気になりません。
週間新潮や週刊文春の発行部数がどう推移しているのか把握していませんが、やはり根強い人気があるのでしょう。人気というよりは需要という表現のほうが正しいですね。人間の性はそう簡単に変わるものではありません。もしかしたら、心が満たされていない人が増えているのかもしれません。
要するに「他人の不幸は蜜の味」、ここに幼児性の最たるものがあります。他人のさまつなことを気にするよりも、自分の仕事と生活にキチンと向き合う。それが大人というものです。
自分は大人なのか、そう考えさせらてしまう文章です。。。
そして、次の文章も楠木建節がさく裂しています。
邪推に邪推を重ねて言えば、あなたが漂わせている幼児性は、自分の日々の生活がいま一つ充実していないからかもしれません。ご自身も社会人大学院に行ってみるというのはいかがでしょうか(←『週刊新潮』バリの底意地の悪さ)。
面白いですね~。面白さで、辛辣さをオブラートに包んでいるようにも感じられます。
相談者の方は、自分の「幼児性」がここまで明白に、明快にあからさまにされるとは思ってもみなかったでしょう。
あなたはどうでしょうか? 自分の幼児性にハッとされた方もいらっしゃるかもしれませんね。