なぜキンミヤが東京で根強い人気を誇るのか そこにはある逸話の存在がある
こんばんは。
本日も当ブログにお越しいただきありがとうございます。
今日は久しぶりに晴天に恵まれました。そのせいか、気分よく一日を過ごすことができましたね。体調もさらに良化したように感じます。おまけに、洗濯物もカラカラに乾かすことができました。
やはり太陽の力は絶大ですね。心も体も洗濯物もすべて爽やかにしてくれます!
昨日の記事では、「キンミヤ」のお話を始めさせていただきました。
私がキンミヤを知ったのは、ホッピーを好んで飲み始めた時期でした。そしてキンミヤが四日市で作られていることを知り、「三重の焼酎がなぜこんなにも東京で人気があるのだろう」と疑問を感じたことをお伝えしましたね。
キンミヤは古くから東京下町の大衆酒として人気がありましたが、その人気を一段と高めた、ある逸話があります。
そのきっかけは1923年(大正12年)にさかのぼります。
1923年の出来事として、何かを思い出す方は多いかもしれません。
そうです、関東大震災が発生したのです。
この大地震により、東京下町だけでなく東京全域が壊滅状態に陥ってしまいました。190万人が被災し、10万人以上の方が死亡あるいは行方不明になったと推定されています。そのほとんどを東京と神奈川が占めています。
この未曽有の大惨事の中で、当時の宮崎本店の社長が英断を下します。
宮崎本店は東京と三重の間を往来していた廻船に支援物質を積み込み、お世話になっている酒屋さんにそれを無償で配り歩いたのです。
東京の下町の人はこの時の恩義を忘れず、その後、キンミヤの取引を飛躍的に増やしていきます。このことが、東京下町でキンミヤが根強い人気を誇る大きな理由の一つなのです。
この逸話はキンミヤ愛飲家の間で語り継がれているようです。
まさか、キンミヤと関東大震災にこのような関係があるとは知りませんでした。
このストーリを知り、私はますますキンミヤを好んで飲むようになりました。
ストーリーは人の心を惹きつけますね。
同社は阪神・淡路大震災や東日本大震災でも被災地支援に積極的に関わっています。最近は企業が被災地を支援することは特段珍しいことではありませんが、関東大震災が発生した1920年代には、画期的なことであったようです。
キンミヤが愛される大きな理由の一つが分かったような気がしました。