最初の転機は「キャバレー」
こんばんは。
綾小路きみまろさんの著作『しょせん幸せなんて自己申告』。
「挑戦について」の章から、次の文章をご紹介します。
・高校卒業と同時に夜行列車に乗って身一つで上京。大学に通いながら北千十の新聞販売店で住み込みで働く。その後キャバレーでボーイとして働くようになったのが第一の転機。
・ボーイとして入ったにもかかわらず、ひょんなことから司会進行を任されることになった。その後場所を転々としながらも、キャバレーの司会者をかれこれ10年。これをきっかけに後に森進一の歌謡ショーの司会を任される。
・「このまま中年になっても歌謡ショーの司会を続けていいのか」という焦り。
・「漫談家として身を立てたい」という思いがふくらむ。自作の漫談を吹き込んだカセットテープを配り歩くのが日課に。毎晩テープをダビングし翌朝高速道の大きなサービスエリアで観光バスに配る。このときすでに40代後半。これが芸人綾小路きみまろの出発点。
きみまろさんが高校を卒業してから、芸人綾小路きみまろとしての出発点となる40代後半までが描かれています。
これはほんとーに大まかな出来事しか書かれていませんので、きみまろさんの歴史を語るには少なすぎます。でも、ご安心ください。この間にあるいくつものストーリーが、この章に続く別の章で書かれていますので。おいおい紹介していきますよ。
上京して苦学生としての生活を始めた後に、キャバレーでボーイとして働くようになったのが第一の転機。
この段階ではまだ「芸」の世界に入ってはいないんです。ただ、キャバレーという「芸の場」に足を踏み入れただけ。
でも、この最初の一歩が芸人綾小路きみまろにつながることになった。大きく重い一歩だと言えます。
あなたは「キャバレー」と聞いてどんなイメージを抱かれますか?
少し古めかしくも感じますよね。
またまた、Wikipediaさんにお世話になりましょう。
というのも「キャバレー」を知っているといないとでは、この時代のきみまろさんの環境理解が変わってくるからです。
日本におけるキャバレーとは、ホステスと呼ばれる女性従業員が客をもてなす飲食店の一業態で、ダンスフロアを備えていた。第二次世界大戦後に現れ、昭和30年代から40年代に最も流行した。より大衆化した1970年代以降はおさわりなど、お色気サービスを伴う店も登場した。オイルショックの影響やスナック・ディスコなど後発の業態に押されて店舗数は減少し、2010年代にはほぼ絶滅状態となった。
明日に続けます。