「イラっとする」のほうが確かにマイルドに感じるが…
こんばんは。
「イラっとする」
あなたも日常でこの言葉を使っていませんか?
長らく「ムカつく」という言葉が使われていましたが、いつのまにか「イラっとする」という言葉がそれに置き換わった。楠木建さんがおっしゃるように「ムカつく」よりも「イラっとする」のほうがマイルドな感じがします。控えめで間接的で、かつ客観的なようなニュアンスを含んでいる。自分の意図に反してそう感じてしまう。そんな、なにか責任逃れができるような言い回し。
「あいつのことムカつくんだよな」
というよりは
「あいつ、なにかイラっとするところがあるんだよな」
のほうが、自分勝手ではなく、控えめ。かつ、他人からも同意を得やすい。そんな雰囲気がありませんか。
そんな言葉であるがゆえに、多くの人が日常的に使うようになったのではないでしょうか。
あなたはどう感じますか?
楠木建さんは、この言葉の意味をもっと深く考察されています。「イラっとする」が今の時代をヒジョーに悪い意味で象徴していることがある、と。
何を象徴しているかというと「大人の幼児化」です。
僕の考える「大人」は、「イラっとする」というような言葉は使いません。多分に僕の偏見かもしれませんが、「イラっとする」という言葉には底抜けの幼児性を感じて、何かこう、イラっとするんですね(←おっと失礼)。
この文章も楠木建節が冴えわたっています。鋭い考察を硬い文章で一方的にまくしたてるのではなく、思わずクスっと笑ってしまう文章。さすがです。
「イラっとする」という表現が日本社会で一般的に使われるようになった背景には「大人の幼児化」がある。
こういう視点はありませんでした。世の大人たちが、つまるところ社会全体が、総じて子どもじみた空気を漂わせるようになった。それがゆえに「イラっとする」という言葉が多用されるようになった。私たちが使う言葉は、社会を反映している。そして、その逆もしかり。
「底抜けの幼児性」という表現も響きます。
単に「子どもじみた」雰囲気を感じさせるのではなく、恥じらうことなく、無責任に「子どもである」ことを厭わない、そんな大人が増えてきた、そんな社会になってきた。
「ムカつく」よりも「イラっとする」のほうが確かにマイルドに感じるのですが、実際の心の中の思いははその逆。表現をマイルドにしながら、心の中で抱く思いは逆に自分勝手に膨張している。そんな気がします。
楠木建さんの鋭い考察をもっと噛み締めるために、「幼児性」についてもっと深堀していきましょう。
明日に続けます。