「行動と見識」KOUSHIのブログ

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世界のビールを楽しむ キリンビール

さあ、今日からはキリンビールについてお伝えします。

 

日本ではアサヒと肩を並べる業界2位ですが、世界の生産量ではやっとトップ10に入る程度です。以前は、日本でビールといえば「キリンビール」という時代が長く続いていました。我が家でも「キリンビール」を酒屋さんに運んでもらっていましたね~。

 

まずは、キリンビールの歴史を振り返ってみたいと思います。

キリンビールの起源は、1870年に日本で初めて大衆向けのビールを販売した、スプリング・バレー・ブルワリーという企業にさかのぼります。

その後、1885年に、スプリング・バレー・ブルワリーの跡地に、ジャパン・ブルワリー・カンパニーという会社が設立されます。

いずれの会社も外国人がその中心を担っていましたが、ジャパン・ブルワリー・カンパニー設立の際に、三菱の社長である岩崎彌之助氏が株主として加わります。キリンビールが三菱系の会社であるのは、ここから始まっているのですね。

 

以前お伝えしたように、同じ時期に、大阪麦酒、札幌麦酒、日本麦酒も創立されています。

 

また、キリンビールの象徴ともいえる、霊獣「麒麟」のラベルの原型は、ジャパン・ブルワリー・カンパニー時代の1888年に誕生しています。

 

1900年代に入ると、ビール業界の競争は激しくなります。そうした中、1906年に、大阪麦酒、札幌麦酒、日本麦酒の三社が合併して、大日本麦酒が誕生したのはお伝えした通りです。

この会社は市場シェア70%を超える大会社でしたが、その時、ジャパン・ブルワリーはどうしていたのでしょうか?

 

その時、実はジャパン・ブルワリーは大日本麦酒から合同の提案を受けていました。

しかしながら、ジャパン・ブルワリーは大日本麦酒との合同ではなく、ジャパン・ブルワリーを操業状態のまま引き継ぎ、新会社を設立することを決意します。

この際に、三菱社長の岩崎久彌氏に支援を要請。三菱から人材と資金援助を得たのち、1907年に麒麟麦酒株式会社が設立されました。三菱財閥傘下の日本国籍会社の誕生です。

 

その後、第一次世界大戦関東大震災、昭和初期の経済不況という時代を経ながらも、1939年には国内ビールの生産量はピークに達します。

戦前までのメジャープレイヤーは依然として大日本麦酒であり、当時の麒麟麦酒のシェアは高くありませんでした。

 

明日に続けます。