絶対的に前向きな姿勢
こんばんは。
本日もこのブログにお越しいただきありがとうございます。
昨日の記事では、鍵山さんのご両親が疎開先で過酷な状況に置かれていたこと、その環境下でも、生活態度にはうろたえたところがなかったこと、をお伝えしました。
そして、鍵山さん自ら過酷な農作業に従事するに至ったことをお話しました。
鍵山さんは、「与えられた生活環境のなかで、新たな意欲と希望を見出すほかなかった」とおっしゃっています。
この環境を卑屈に感じるのではなく、前向きにとらえたのです。
書籍の中で、鍵山さんの前向きな考え方が示されています。
「おかげで、そのときの体験が活かされ、決して『あきらめない』『落胆もしない』という精神を身に付けることができた。」
「同時に、『これをやったらこういう得がある』というような、目先の打算的考え方も起こらなくなった。努力そのものに意義をみいだせるようなった。保障されたことばかりやっていると人間のエネルギーを喪失する。」
「その時の体験があったおかげで、強靭な忍耐力を身に付けることができた。たとえ報われない努力に対しても決して諦めない、落胆しない、そんな精神が身に付いた。
同時に、これをやったこういう得があるというような打算的な考え方も起こらなくなった。」
「ところが、その後の人生において大きな収穫を得ることになった。誰にも負けない『忍耐心』。この『忍耐心』が身に備わっていたために、社会人になってからのあらゆる困難に立ち向かうことができた。」
「このように、努力は必ずしもそのままのかたちで成果として表れることはないかもしれない。しかし、努力したことは形を変えて必ず自分に返ってくる。無駄な努力は一つもない。」
「『境遇に強いられしところにより事を行えば、そのことは必ず成就する』という言葉がある。逃げ道のない強風や環境の中で物事をやったら、そのことは必ず成し遂げられる。疎開先での境遇が不屈の忍耐力と継続力を身に付けるの大いに役立った。」
鍵山さんの数多くの書籍の中で、このような言葉が繰り返し述べられています。
はたから見れば本当に不幸な境遇としか思えない。それに屈するどころか、自分の生きる糧としています。
環境が鍵山さんを育てたのか、鍵山さんが環境を利用できたのか。おそらく双方なのだと思います。
ただ、自分が同じ環境に置かれた場合に、鍵山さんと同じような考え方を持てたとは思えません。
あなたならどう思われますか?