「行動と見識」KOUSHIのブログ

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チャーチルは遅咲きか? 物語は始まっていない

 

こんばんは。本日もお立ち寄りいただきありがとうございます。

 

チャーチルと和製チャーチルこと吉田茂。2人の共通点の1つとして挙げられるのがユーモアのセンス。昨日は2人のユーモアセンスが光るエピソードをお伝えしました。

 

吉田茂こそまさに「遅咲きの政治家」。彼の内閣総理大臣就任は68歳でしたね。

では本家のチャーチルはどうであったのか? 彼の生涯を簡単に振り返ってみます。ここでも「遅咲き」という観点で手短に。

 

軍を退役し庶民院議員に当選したのが1900年。チャーチル26歳の時でした。

その後33歳で当時史上2番目の若さで商務長官を務めると、35歳の時には内務大臣、その翌年には海軍大臣を務めます。

「ぜんぜん遅咲きじゃないじゃないか!」という声が聞こえてきそうです…。

順調すぎるほど政治家としてのキャリアを積み上げていたこの時期のチャーチル。ですが、人生そんなに上り坂は続きません。

 

第一次世界大戦の最中である1915年、チャーチルが決行した「ガリポリ上陸作戦」が大惨事と呼ばれるほどの被害を出し、大失敗に終わります。これによりチャーチルは罷免されてしまうのです。

次に与えられたポジションは何の影響力も持たない閑職。現代風にいえば、出世街道を上り詰めてきたエリートサラリーマンが窓際に追いやられた格好です(この例えは少し軽すぎるかもしれません…)。

事実上の失脚。チャーチルは自らその職を辞します。チャーチル40歳の時でした。

 

政治生命を絶たれたかに思えたチャーチルですが、1917年に幸運にも軍需大臣として政治の表舞台に戻ります。

第一次世界大戦終了後は、陸軍大臣と空軍大臣を兼任し反ソ干渉戦争を主導。続いて植民大臣に転任すると中東とアイルランドの和平問題に取り組みます。

そして49歳の時に大蔵大臣に任命。彼の亡き父が得た最高のポストを打診されたチャーチルは人目もはばからず大粒の涙をこぼしたと言われています。ちなみにチャーチルは、18世紀初頭のスペイン継承戦争で勝利を収めたマールバラ公の血をひいています。彼の父も若くして政治家としてして活躍していたのでした。彼が政治家を志したのも父の影響によるものです。

 

こうやって字面だけみると、順風満帆のようにも感じられます。血統もいいし恵まれているではないか、と思えるかもしれません。

または、一度の失脚を乗り越えて成功を収めた人物の物語としてここで話を終えてもいいような気も。でも、まだ物語始まっていないのです。

 

明日に続けます。

 

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