人の順応力はすごい 良くも悪くも
こんばんは。
今回PCが故障して不便を感じる時間を過ごしたのですが、同時にこうも思ったのです。
人は環境にすぐに順応できるものだ。
これはいい意味でも悪い意味でも。
まず悪い側面から見ていきますね。
PCが故障してその存在のありがたみを感じたのですが、これは裏を返せば、そのありがたみを忘れていたということ。
PCでなくてもなんでも一緒です。スマホ、掃除機、乾燥機、食洗器といった家電製品から、いろいろなアプリやECによるサービスの数々。
初めて手に入れたときや使ってみたときには、嬉しさを、ありがたみを感じた。その便利さに感動を覚えた対象もあるかもしれません。でも、その新鮮さが続く期間はごくわずか。ありがたみを感じなくなるのはあっという間です。
その対象があるのが当たり前になってしますのは思いのほか早い、そう感じませんか。
手にするまではなくても全く生活に支障がなかったし、不自由も感じなかった。
でも一度使ってしまうと、それがないと生活が立ち行かないと感じたり、不自由を強く感じるようになる。実際には何の問題がないとしても、それが無い生活が考えられないと感じてしまう。
よく「人間、一度贅沢を味わうと・・・」という話は見聞きしませんか。
例えば、高収入の世帯がどんどん生活水準を上げて浪費を繰り返す、貯金がほとんどなくて老後資金が心配、といった話ですね。一度生活水準を上げてしまうと、その水準を落とすことは難しい。分相応に暮らせばいいのに、もはやそんな生活には戻れない。
こう考えると、生活水準を上げずに暮らし続ける方がよっぽど幸せだと思いますよね。慎ましくも不自由のない生活を続けて、お金は老後や、もしもの時に備えて取っておく。一度便利や贅沢を味わってしまい、それを支える金銭的自由がそれなりにあったりすると、それが通常になってしまう。こうするとなかなか元には戻れない。
でも、「環境への順応」にはいい面もある。
PCが故障して古いタブレットを使い始めた日は苛立ちを感じていました。レスポンスが遅くこれまでふつうにできていたことに何倍もの時間がかかることに。
でも、数日経つとそれを受け入れられるようになっていた。レスポンスの遅さは当然のことと捉えるようになり、それが苛立ちの対象ではなくなる。
日が経つにつれ、その状況がノーマルとなり、その環境で過ごすことに違和感を抱かなくなっている。我ながら呆気にとられるほどでした。
私の例はあまりにも小さなことですね…。
「人間は順応できる」はもっと大きなことにも当てはまります。辛い時代に生きた人々の話、人生の辛い時期を過ごした人々。そうした環境でも力強く生き抜いた人たちのストーリーは数多あります。精神的な強さがそれを支えたという面もあったでしょう。でも、人間には生来「環境に順応できる強さ」が備わっているとも言えると思うのです。
今回のPC故障は大した事件ではありませんが、人間の順応力を実感した、そして思考を巡らせることができた。これも収穫の一つであったと思います。