「行動と見識」KOUSHIのブログ

行動と見識で人生を豊かにする

言葉にて語りえるものを語り尽くす その果てにあるもの

 

こんばんは。

昨日は、田坂広志さんの『人生で起こること すべて良きこと』から「言葉」について言及された文章をご紹介しました。

 

我々は言葉にて語りえるものを語り尽くしたとき、言葉にて語り得ないものを知ることがあるだろう。

 

書籍の文脈上の意味合いからは外れてしまうかもしれませんが、この文章を読んで気づいたのは、「言葉は万能ではない」ということです。

昨日も書きましたが、言葉についてことさら意識することがなければ、言葉はいつでもそこにあるものだと思ってしまうものです。自分が発する言葉で何でも表すことができる、伝えることができる、と。

でも、言葉は完全ではない。私たちの頭の中に、心の中にあるもの全てを言葉で表現することはできないのです。もちろん、人それぞれの言語能力の違いによって、語ることができない領域は違ってくるでしょう。でも、いくら言葉を使う能力に長けている人であっても、その人の考えを、思いを全て表現することはできないのです。

言葉=自分自身ではない。言葉は自分の頭の中、心の中にある思考や感情の一部でしかないのです。

 

これは、私たち自身がその存在に気付いていないことがある、ということでもあります。

人は言葉を通して考えを巡らせます。言葉にできないものは、私たちにとっては存在しないものなのです。こう考えると、言葉の不完全さを認識せざるを得ません。と同時に、人間の大きさ、秘めた可能性も感じることもできるのですが。

 

我々は言葉にて語りえるものを語り尽くしたとき、言葉にて語り得ないものを知ることがあるだろう。

 

言葉にて語り得るものを語り尽くす。つまり、考え尽くすことによって、それまで不確かであった存在、自分の一部を知ることができる。

 

この文章は希望を与えてくれます。言葉を語り尽くすことによって、それまで認識できていなかった自分を知ることができるのですから。

同時に、これまでいかに深い思索を怠ってきたのか、言葉を蔑ろにしてきたか、という反省も思いも抱かされます。

 

言葉にて語る、考える、というのは骨が折れます。必ずしも正解や解決策が見いだされるわけではありません。いや「深く考える」という行為は、その場しのぎの答えを見い出すための営みではないのでしょう。

効率、便利、大量、冨、といった、容易に分かる存在を追い求めることが称賛されてきた時代に生きている私たちは、安易にハウツーを求めてきました。

 

でも、時代はもうだいぶ変わりました。

大多数の人が生きるのに困らないレベルの生活水準を持てる、便利が行き届いている。そんな時代には、これまでの行動パターンから脱却し、「深く考える」ことがより幸せに生きることにつながるのではないでしょうか。幸い現代の私たちにはその余裕もあるのですから。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
にほんブログ村

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

 

にほんブログ村 旅行ブログ 海外一人旅へ
にほんブログ村