「わからない」という勇気
こんばんは。今晩もこのブログにお立ち寄りいただきありがとうございます。
今日のテーマは「即座に意見を述べることの怖さ」です。
何かとスピードが求められる世の中。
他人から意見を求められたり、質問したときに、すぐに「答えを出す」ことを当然のことと感じていませんか。考えていませんか?
何を隠そう、私もそんな考えにとらわれている一人です。
「すぐに答えを出す」ことには、ある種強制的な雰囲気も感じます。
「答えられないとバカだと思われてしまう」「自分が優れていることを証明するには即答しなくてはいけない」という虚栄心がその原因だと思います。
ただ、即答するのに複雑すぎる質問にすぐに答えるのは危険が伴います。
短時間で論理的な答えを出すのは難しい。コントロバーシャルな社会的問題に限らず、自分の人生やキャリアにおいても、です。
私たちの脳はどんな質問にも「答え」を見つけ出そうとする性質があります。これが、自分が答えられない質問にも答えてしまう理由の一つです。
先に述べたように、感情面を考えてみると、たとえ答えがわからなくても「分からない」と言うことは、自分に能力がないことの証明だと思ってしまいがちです。また、会話の中で劣等感を持ったり、そう感じるよう仕向けられると、それに怒りの感情を持ち、反論するために何かを発言してしまったりします。何もわかっていないのにもかかわらず。
「直感で出した答え」の正しさを裏付けるための根拠を後付けで探し求める。自分の直感の正しさを証明するために。
心理学では「感情ヒューリステック」とも言われるものです。
直感で出した考えは間違っているかもしれない。でも、それを正しい答えだと正当化しようとする。直感に固執してしまう。
「間違っていた」ことを認めたくないのは人間の性でもあります。
ここに不幸があるのです。
すぐに答えられない質問に「わからない」と答える。このことを実践してみる。
これは勇気を必要とする行動かもしれません。ただ、その勇気から得られる「何事にも答えなくてはならない」という圧迫感・ストレスから解放されるというメリットを軽んじてはいけません。
自分が答えられることについて答える、自分の興味の範囲外ことには答えない。
「わからない」と表明することは無能の証ではありません。自分の人生や生活、または興味の範囲において、しっかりとした意見を表明することで、能力を示せばよいのです。
ただ、「自分の意見を表明する対象」が「わからない」のは問題かもしれません。何にも興味を持っていない、自分が打ち込めるものをもっていないことの証左かもしれません。
たとえ興味があったとしても深堀りできていないため、自分の意見がわからない。ぼんやりとしていてまとまっていない。
後者を防ぐには、頭で考え続けるのではなく、「書く」こと。これで考えを整理することができます。書くことの重要性の一つはここにもあります。
「書く」ことは「行動する」ことでもあります。これも重要なポイントですね。