「一石二鳥」という言葉に依る生き方
こんばんは。
私の座右の銘である「一石二鳥」。
この言葉が先にあって行動が変わったのか、それとも行動が先にあってこの言葉を重く捉えるようになったのか。どちらかははっきりとしなくとも、言葉と行動が矛盾しない関係になっていったのは紛れもない事実。長い時間をかけて言葉と行動が一致していったのです。
私の英語学習方法は、このことを如実に表しています。
例えば、長年続けている「英文日記」はその最たる例。一日を振り返り、自分と対話をする「日記」という行為を英語で行う。日記という日々の取り組みに英語学習を掛け合わせています。
さらには、常にイヤホンを耳に入れて英語のヒアリングを行う習慣。移動や散歩といった外出時に限らず、家の中で掃除や洗濯をする際にも必ず英語を聞くことがセットになっています。
英語学習は最たる例なのですが、この考え方・思考方法は生活のあらゆる側面に影響を与えています。
この考え方が「時間を無駄にしない」という価値観となり、「何もしない時間を極力排除する」という行動を促す。
大切な「時間」という資源を無駄にしない。この考え方とそれに伴う行動自体は称賛すべきであり、自分の生活習慣のなかでも優れたものの一つだと自負しています。
でも、最近になって、このことに少し違和感を抱いている自分に気がつき始めたのです。
例えば週末の過ごし方。時間を一時も無駄にしないように朝から晩まで予定を詰め込み行動を続ける。日中に隙間なく活動ができたときには、一日の終わりに充実感を抱くことができる。そんな生活を長らく続けてきました。
でも、いつも充実した日を過ごせるわけではありません。どうしてもやる気が起きない時やダラダラしてしまうことがある。そんな時には、その日を後悔で終えてしまう。自分を責めてしまう。「時間を無駄にしてしまった」自分を責めてしまうのです。こんな日も何度も味わってきました。
移動の電車内で読書をせずに眠りをとってしまったこと。
テレビを何時間も見続けてしまったこと。
こういう行動をとってしまった日には後悔の念を抱く。「今日はこんなにも時間を無駄にしてしまった…」と後悔をする。
「自分の能力向上やスキルアップといった、何かしら自分のためになることをしていないと時間を無駄にしているように感じる」ことが自分の中の揺るぎない観念となっていたのだと思います。
私が行列に並ぶのを苦手に感じるのは、この観念と関係しているのかもしれません。電車やバスを待っている時間ですら無駄に感じてしまうくらいですから、長時間並ぶということは苦痛で仕方がないのです。
この考え方に少し修正を加えなければいけないのでは? そう思い至りました。
明日に続けます。