楽しみにしていたのに近づくと面倒になる
こんばんは。本日もお越しいただきありがとうございます。
久しぶりに参加した講演会はオンライン。
ワクワクして申し込んだものの、直前になって参加を見送りたくなっている自分を発見しました。
これはなぜだろうか?
考えてみると、そこにはオンラインのデメリットがあると感じました。
オンライン参加の場合、たとえ欠席したとしても罪悪感が小さくなりませんか? 責任感が希薄になるとでも言いましょうか。
会場での講演会の場合には、あなたは、講師のみならず、他の聴講者やその「場」と一体になっている。その場の雰囲気を肌で感じることができる。
でも、オンラインだと、この一体感が得にくい。「同じ場にいない」というのは、物理的な距離だけでなく、精神的な間隔をも広げてしまう。
この感覚が、参加の意欲を削ぐ。
会場で行われる講演会に欠席したとしても誰かに怒られるわけではありません。でもある種の義務感は伴う。「欠席したら申し訳ない」という気持ちが伴っている。それが、オンラインだとこういった責任感は薄くなってしまう。「自分がいなくても、講演には何も影響しないしな~」などという言い訳がしやすくなる。
たとえ参加しても講演に入り込めなかったり、ながら見をしてしまったり。無責任な行動に結びつきやすい。
物理的な距離が与える精神面への影響はほんとに大きいな~と感じました。そして、やはり「リアル」は重要で、コロナ後もそれは変わらないだろう、との思いを強めました。
「講演会の参加止めてしまおうかな」と思った理由がもう一つ。
それは、この講演会に限ったことではなく、生活の至るところで生じてくる「新しいことを避けたい」という本能の働き。
気の進まないことや嫌いな対象をやろうとするときには、この感情が生じるのは理解できますよね。
「やっぱりやりたくないな~」「何とかやらずにすませないか」といった「やらない」ことに気持ちが向いてしまっている。起こるべくして起こる感情と言えますよね。
でも、楽しみにしていることに対しても「やりたくない」という感覚に襲われることはありませんか。
例えば、楽しみにしていた旅行の日程が近づいてきた時、ふと「面倒くさいな~」と感じたりすることはありませんか?
ワクワクした気持ちでいっぱいのはずだった。それまで、こんな後ろ向きな感情を持ったことはない。なぜこんなふうに感じるのかが自分でも理解できない。そんなことはありませんか?
私たちの脳は「現状維持」を好む。変化が嫌い。
変化には危険が伴います。私たちの本能は危険を避けようとするのです、生きて種を保存するために。
危険性を感じないことであったり、逆に求めていることであったりしても、「変化」ということに変わりはありません、脳にとっては。本人はそう思っていなくても、脳がその行動をさせまいと働くのです。
明日に続けます。