「行動と見識」KOUSHIのブログ

行動と見識で人生を豊かにする

謙虚であるとはどういうことか?

 

こんばんは。

 

「他者への嫉妬」という醜い感情を抑える、手放す方法。

その一つ目として、下記について伝えてまいりました。

・大切なのは「自分がよければそれでいい」と思うこと。

・他者の恵まれているところにばかり目が向くが、全面的にうまくいっている、全てがハッピーなどという人は世の中に存在しない。

 

楠木建さんは、もう一つの方法を示してくださっています。

それは、

・もう一つ大切なのは、「自分は普通の人間だ」と思うこと。要するに謙虚であること。

次の文章も続けます。

・世の中の優れた大人は決まって謙虚。「人は人、自分は自分」という感覚をもっている。

 

「自分を普通の人間だと思うこと」=「謙虚であること」。

この文章を読んで「そうだったんだ!」と思ったのです。

 

「謙虚」という言葉は「控え目、つつましい」という意味ですよね。これは皆さんもご存知だと思います。そして、これは「自分を偉いものと思わない」という意味合いにもつながっているんです。

「自分を普通の人間だと思う」ことがすなわち「謙虚」であること。わかっているようで実際には理解していなかった、そのことに気づかされました。

 

「謙虚」であるべき

特に日本の社会においては「謙虚であること」は尊重されてきました。家庭での子供のしつけにおいても、最も重きを置かれてきた「徳」の一つでしょう。

また、これはあまたの人生指南書や自己啓発書に書かれていることでもあります。

 

でも、本当の意味で「謙虚」な人というのはどれほどいるのだろうか、とも考えてしまいます。

「謙虚そう」な人というのはいます。つまり、うわべでは「謙虚に見える」けれど、実際はどう考えているか分からない人。こういう人は多い。もっといえば、大部分がそういう人でしょう。「謙虚という言葉を知らないのでは?」と感じるような、あからさまに傲慢な人はごく少数。

社会生活を営む上では、他者と良好な関係を保つ必要があります。良好とはいえないまでも、大過なく関係を続けていく必要がある。だから、私たちは本音と建前を使い分ける。「建前」は必要なことであって悪いことではないですよね。

 

そうわかっていても、本音の「傲慢さ」が他人に感じられたときに、その人に対して何かいやな感覚を抱いてしまいます。うわべの、建前の「謙虚さ」が際立っている場合であれば、軽い衝動も受けるでしょう。

 

根っから謙虚な人というのはいるのでしょうか。

うわべだけでなく、本音の部分でも「自分は普通の人間だ」と思っている人はいるのでしょうか。

 

あなたはどう思われますか?

 

 

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