「無努力主義」の原則とは?
こんばんは。今日もこのブログにお越しいただきありがとうございます。
楠木建さんが柿ピー好きだったことから、柿ピーの話題、さらには亀田製菓さんの話題にと長らく脱線してしまいました。
今日からは『好きなようにしてください たった一つの「仕事」の原則』(ダイヤモンド社 2016年)
から、私の心に響いた内容のシェアへと話を戻します。
楠木建さんの書籍を読んでいると多くの「私的専門用語」に出会います。
以前「怒るな、悲しめの原則」についてお話ししました。これも楠木建さんの私的専門用語の一つです。
今日は、楠木建さんのもう一つの「原則」についてお伝えしたいと思います。
それは
「無努力主義」の原則
です。
この文字だけ見ると、努力を推奨しないかのように感じ取れますね。
実際はどんな内容なのでしょうか?
まずは、これまでと同じように、私のメモから抜粋したいと思います。
ちなみに、この書籍から私がとったメモはWord2枚にまとめられています。
その筆頭にこの「無努力主義の原則」が書かれていました。もう2年以上も前のメモで当時のことをよく覚えていないのですが、このことが一番心に残ったのだと思います。
「『努力』かどうかは当事者の主観的認識の問題。」
「質量ともに一定水準以上の『努力』を継続できるとすれば、その条件はただ一つ。『本人がそれを努力だとは思っていない』。これを無努力主義と言う。」
「無努力主義の本質は『努力の娯楽化』。その対象が理屈抜きにスキだということ。」
努力とは何か?
あなたはこの問いに対する答えを考えたことはありますか?
私は、その問いすら考えたことがありませんでした…。努力とは「歯を食いしばって頑張るもの」という固定観念しかなかったのです。
その凝り固まった考えから脱却させてくれたのが、これらの楠木建さんの言葉でした。
「無努力主義」とは、つまり、周囲から客観的に見れば、努力を継続しているように思えても、当の本人は主観的にはそれを努力だとは思っていない、ということです。
私たちの一つの信念として、「努力」の必要性・重要性は根付いているように感じます。
「努力なしには成功は得られない」といった言葉は、当然のこととして受け止められている。そう感じませんか。
そして「努力」は「美徳」の一つと捉えられている。
何事かを得るためには、努力を投入することが必要。精神力で継続して行わなければいけない。それは簡単なことではない。
その簡単ではないことを成し遂げる。それが努力であり、努力は美徳の一つである、といった感覚を多くの人が持っていると感じます。
明日に続けます。