悪循環の空回り
こんばんは。
今日も楠木建さんの「無努力主義の原則」についての話を続けます。
昨日のメモに続いては、下記の言葉が記されていました。
「中途半端な『努力』をして、結果的に大した成果を出せず、ますます『努力しなきゃ』となる。」
「『努力しなきゃ』→『でもイヤだな…』→『よーし、明日から努力をすることにしよう』→(で、翌日)『やっぱりイヤだな…リアリスティックに来週から努力することにしよう』。気づくと半年くらい経過という悪循環の空回り。」
自分のことを言われている、そう思いませんでしたか?
私は、イヤというほどこの悪循環にはまってきました。
このことには薄々気づいていたのですが、他の選択肢が考えられなかった。
「仕方がないけど努力しなくてはいけないんだ。」
「自分の意思力の弱さが露呈してしまった。次こそは精神力で何とかするぞ」
といって、新年に同じ目標を掲げたりする。その次の年も同じ状況に陥り、さらにその翌年も心機一転、同じ目標を掲げる。そして、その翌年もという悪循環。
それにしても「悪循環の空回り」という表現は見事ですよね。
私はまさに「空回り」を繰り返してきました。
中途半端な努力は、得たいものを得られないだけでなく、失うもののほうが大きい。
貴重な資源である時間を大量に無駄にしているわけですから。
さらに、次のメモが続きます。
「『努力しなきゃと思った時点で終わっている。次行ってみよう』の無努力主義を意識的に標榜する。」
そうなのです。「努力しなきゃ」と思っている時点で、その対象が不得意で、不得手であることは確かです。そして、その対象や、乗り越える努力が嫌いであり、過程においてもっと嫌いになってします。
そんなものに歯を食いしばって頑張っても、中途半端な努力に終わってしまう可能性が高い。
そのような対象は、そのことが「好きでたまらない」という人に任せる。
そして、自分が「好きなこと」に時間を投入していく。このほうがよっぽど生産的ですよね。
この「意識的に」というところもポイントでしょう。
「努力は美徳」という見方が蔓延している世の中においては、「弱点を克服する」ことを称える空気があります。その雰囲気に流されてしまいがちなのです、私たちは。
努力の大切さは否定できませんが、その対象を間違えてはいけません。
自分が少しでも「好き」という要素がある対象のほうが、うまくいきやすい。そういう対象を見つけましょう、と楠木建さんはおっしゃってるのでしょう。それが「次行ってみよう」という言葉ですね。
やっているうちに「好き」になることもあります。ですから、できる限り多くのことを試してみることは大切ですね。
多くを試すのには時間を要します。だからこそ、「これは合わない」と思った対象はすぐさま切り捨てることが重要なのです。
明日に続けます。